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末尾ルコ詩D「カミキリに関する3行」 [「言葉」による革命]

末尾ルコ詩D「カミキリに関する3行」

カミキリはいそいそ動かない。
カミキリは思索的だ。
カミキリは美しい。

●朝の時間に聴くに相応しい美しい旋律、オリビア・ニュートン・ジョン『そよ風の誘惑』。 [吉高由里子]

●朝の時間に聴くに相応しい美しい旋律、オリビア・ニュートン・ジョン『そよ風の誘惑』。

末尾ルコ「音楽話題で知性と感性を鍛えるレッスン

例えば現在だと、「日本人の大部分が知っている洋楽女性歌手」と言えば誰になるだろうか?
ビヨンセやレディー・ガガ辺りがその候補に挙がるだろうけれど、ではビヨンセの歌そのものを聴いたことがある日本人はどのくらいいるだろうか?
「洋楽」「邦楽」という分け方はいかにも薄っぺらくて好きではないけれど、ここでは便宜上その言葉を使っている。
が、「邦楽」と書くと、どちらかと言えば、「日本の伝統音楽」的な世界を思い浮かべる人も多くいるだろう。
だから「J POP」という言葉が流通するようになったというのもあるだろうけれど、「音楽」という芸術をあまりカテゴライズし過ぎると、聴く前から(このジャンルはダメ)と決め付けてしまう人が多くなるということも常に再考されるべきだろう。

ところでかつてオリビア・ニュートン・ジョンというオーストラリア出身の歌手が日本で極めて大きな人気を獲得していた。
その人気ぶりは、オリビア・ニュートン・ジョンの来日コンサートを日本の民放が夜の時間帯に放送した事実からも窺えると思う。
ただ、オリビア・ニュートン・ジョンが世界的人気を獲得したのはハリウッドで『グリース』などの映画に出演してからで、しかし「歌」としては「それ以前」のものにとてもいいものが多い。
特に『そよ風の誘惑』は美しい戦慄の名曲で、しかもこのようなタイプの歌は近年ほとんど耳にしないからとても貴重だ。

〈「言葉」による革命〉・・・●末尾ルコ「『北斗の拳』ザコはなぜいつまでもおもしろいのか?」2017年6月17日 [「言葉」による革命]

●末尾ルコ「『北斗の拳』ザコはなぜいつまでもおもしろいのか?」

末尾ルコ「漫画で感性を鍛えるレッスン

漫画『北斗の拳』のキャラクターの中でとても多くのファンを持っているのが、いわゆる「ザコ」たちだ。
『北斗の拳』のザコの役割は、ケンシロウをはじめ主要な登場人物に「あっさりやられる」こと、そして「読者を笑わせる」ことである。
『北斗の拳』初期からザコは描かれていたけれど、「あっさりやられる・笑わせる」度はさほど高くなかった。
あくまで「強さヒエラルキー下位の悪役」だった。
ところが「あべし」に代表される、ザコが絶滅する直前に発する「珍奇な叫び」が評判になるにつれ、「主要な登場人物や強い悪役を引き立てるため」に現れるのではなくて、「噴飯ものの振る舞いをし、噴飯ものの死に方で読者を笑わせる存在」になっていった。
これがしかも、たいがい極めておもしろい、その辺のギャグマンガよりずっとおもしろいのである。
さすがに「ザコが100%おもしろい」とまではいかないが、極めて高い確率でおもしろく、しかも繰り返して読みたくなる。
その秘密は何なのか、またじっくり読み解いていこう。

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●ローマの「剣闘士」の正式継承者は「テニスのグランドスラム」か?あるいは「プロレスのサバイバル術」とは? [「言葉」による革命]

●ローマの「剣闘士」の正式継承者は「テニスのグランドスラム」か?あるいは「プロレスのサバイバル術」とは?

末尾ルコ「テニスやプロレスの話題で知性と感性を鍛えるレッスン

大きなスタジアムで「人間同士の戦いを見せる」というスタイルを遡れば、もちろんローマの闘技場で行われた剣闘士同士の戦い、あるいはそれ以前にもそうした見世物は存在したのだろうけれど、現在最も「剣闘士の死闘」に近いものはテニスのグランドスラムにおける、特に準決勝以降の試合ではなかと、この前の全仏オープンを観ながらそんな気持ちを強くした。
もちろんボクシングや総合格闘技(MMA)などと違い、テニスの試合で失神したり、骨折したりとかいう可能性は低いけれど、一対一の人間同士の死闘が延々数時間続き、その二人だけをスタジアムの大観衆だけでなく、「世界中」が凝視しているという緊迫感など、「凄まじい死闘」というに相応しい雰囲気を常に醸し出している。
そして、「必ずどちらかが勝ち、どちらかが負ける」という「常に完全決着」というスタイルも巨大な緊迫感と余韻を残す。
ボクシングやMMAは、多くのファイターが「判定勝ち狙い」に走る傾向があり、その判定自体も、先の村田諒太の試合を観ても分かるように、「万人に納得できるもの」と行かないケースが極めて多い。
なにせ世界が注目した「フロイド・メイウエザーVSマニー・パッキャオ」が、12ラウンド戦い抜いて、「どちらも大きなダメージを喰わずにしっかり立っている」という有様で、それで満足するボクシング通もいるのだろうが、わたしなどは(12R、おれは何を観ていたんだ)という気分になった。

プロレスはもちろん「純粋に勝敗を争う格闘技」ではないし、「プロのレスリング」でもない。
しかしそれなのに、「プロのレスリング」という名目でずっと続いているのはいかにも興味深い事実だ。
レスリング、つまり「アマチュア・レスリング」をそのままプロにして観客を集められるのなら世話はなく、最初から「プロのレスリング」の興行が発展してきただろう。
しかしどうしても、「アマチュアをそのままプロにしても成り立たない」競技はあるもので、と言うか、世界的にプロとして成立しているのは総てのスポーツの中のごくごく一部だというのは一目瞭然だ。
格闘技関係では、寝技中心のレスリング、柔道、あるいは分かりやすい立ち技の空手やキックボクシングでさえ、「世界的」にはメジャープロスポーツとはなっていない。
そんな状況の中、何だかんだ言って、プロレスがずっと生き残っているのはとても興味深い事実だ。
そして各プロレス団体は、現在も「生き残り」を懸けて戦い続けている。

というような視点でも、プロレス及び他のスポーツについて「語り」を深めていこうと思う。

〈「言葉」による革命〉・・・●末尾ルコ詩D「猫、夏」篇。2017年6月17日 [「言葉」による革命]

●末尾ルコ詩D「猫、夏」篇。

高知市薊野にある


2016年の夏は猛烈だ
夏が猛烈だ
夏の中でも
きっと猛烈だ
だからだろうか
マルコムXの評伝が
飛び出た
狂ったような蝉のシャウトの中

高知市薊野にある


・・・・・・

・・・・・・

この夏と
ぼくの素敵なネコ!

(毎日、「末尾ルコ詩D」を書いてみましょう!わたしの創ったものを写すのではなく、ご自分で創ってみるのです)